稲田侑峰|Ikuo Inada Night by Night September 12 – 20,2020 帝国ホテルプラザアートセレクション

帝国ホテルプラザアートセレクション

稲田侑峰|Ikuo Inada

Night by Night

September 12 – 20,2020

11:00am – 7:00pm(Last day ~5:00pm)

 

人の存在への「あやふやさ」をテーマに人物像を木彫で制作する。理想化された身体が纏う衣服は皺を過剰に彫り込むことで、次の瞬間には移り変わる「儚さ」を木の表面に映し出す。複雑に彫りだされた皺は、光の変化とともに移り変わり目に見える形を認識することの「不確かさ」を想起させる。
本展“Night By Night” では、夜の情景から「夢」をキーワードにいつか過ぎ去る時間と記憶の儚さにみる美しさを人物像で展開する。
“Night By Night”は直訳すると「夜ごと、毎夜」。
三体の像(右《MOON》、中央《夜が来る》、左《夢の世界へ》)は繰り返しやってくる夜の循環を表す。

竹越夏子プロフィール

稲田侑峰|Ikuo Inada

 

人の存在への「わからなさ」をテーマに人物像を木彫で制作する。理想化された身体が纏う衣服は皺を過剰に彫り込むことで、次の瞬間には移り変わる「儚さ」を木の表面に映し出す。複雑に彫りだされた皺は、光の変化とともに移り変わり目に見える形を認識することの「不確かさ」を想起させる。

「儚さ」、「不確かさ」という曖昧な言葉に夜や夢という情景を当てはめ人物像を展開する。

プロフィール

 1986 兵庫県生まれ

2010 東京藝術大学美術学部彫刻科 卒業

2012 東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻 修了

2015 東京藝術大学大学院美術研究科博士後期過程美術専攻彫刻専攻領域 修了

個展|Solo Exhibition

2018 稲田侑峰展「眠れない夜に 」 NORA HAIR SALON(東京)

2018 稲田侑峰展「幻影 」 Gallery&Zakka Gigi(神奈川)

2017 稲田侑峰展「呼び声 」 ガレリア・グラフィカ bis(東京)

2016 稲田侑峰展「冷めた午後 」 ガレリア・グラフィカ bis(東京)

グループ展|Group Exhibition

2019    「Individualism MEDEL GALLERY SHU (東京)
2019    Small Works 2019 ガレリア・グラフィカ bis (東京)
2019    「濾過と抽出」 MEDEL GALLERY SHU (東京)
2018    石川直也・稲田侑峰展「 けはいの景色 」 湘南くじら館(神奈川)
2018    Small Works 2018 ガレリア・グラフィカ bis(東京)
2017    Small Works 2017 ガレリア・グラフィカ bis(東京)
2015    第 10 回 アトリエの末裔あるいは未来 東京藝術大学大学美術館陳館、旧平櫛田中邸 (東京)
2013    「Entities Gallery & Zakka Gigi(神奈川)

布施英利(美術批評家)

 

その彫刻には、いっけん“今”が写されているように見えるが、その背後には“永遠”がある

論評(推薦文) | CRITIQUE

彫刻というのは、写真や絵画に比べると、“今”というものを捉えるのは、どちらかというと苦手なメディアだ。街を歩いていて、今を発散した雰囲気を目にする。今を体現している若い子がいる。それを捉えるには、シャッターを押すだけで済む写真なら、簡単にそのイメージを残せるだろう。絵画でも、さらさらと一気に描くことができる。しかし彫刻は、木を彫り、石を彫り、あるいは粘土による塑像だって、まずは芯を作りそこに粘土を付けていくという工程があり、ともかく作るのに時間がかかる。そんなことをしている間に、“今”は、どこかに逃げてしまう。

 しかし、稲田侑峰の彫刻は、あえてそのような「瞬間」を捉えることに賭けている作品にすら思える。たとえば、長い髪に、右手を上げてその髪を握ろうとする姿を描写した『呼び声』(2017年)という彫刻。この若い女性の肖像のねらいについて、稲田自身はこう解説している。「髪の流れ、体の動きで出来る皺、全てが連動して起こっている現象だが現れる表情はその瞬間にしか無いという刹那の美しさを表現した」。

 刹那の美しさ、それこそが稲田の作品を前にしたときに、「ああ、これが稲田さんの彫刻だ」と思わせるトレードマークのような特徴だ。髪や、服の皺だけではない。涙を描写した彫刻もある。流れる涙という、まさに刹那そのもののような現象にも、他の彫刻家の作品とは違う、稲田らしい世界が見えるのだ。

 以前、稲田侑峰が東京藝術大学の彫刻科に提出した博士論文を読んだことがある。『人間存在と彫刻 —立像にみる存在と距離』と題されたその論文は、三章構成になっていて、人体の造形を問題の中心に据え、「存在」「距離」「重さ」という視点から、稲田自身の作品を考察したものだった。

 その論文の第二章「存在の強さと距離」で論じられていたのは、身体とその周囲との距離ということで、そこに稲田の彫刻作品の特徴がある、と読んでいて思ったものだった。つまり、彫刻作品とくに人体彫刻の魅力は、人のかたちが彫刻というかたまりとして存在している、ということにあるが、しかし特に稲田の作品の場合、それは世界から(空間的に)切り離された人体像であるだけでなく、その人物の周囲の光景の雰囲気までが浮かび上がるような、ある空間の中に存在する人物を想起させるところにある。そう、雰囲気、それが稲田の彫刻の人物たちの周囲にはあるのだ。

人体彫刻というと、えてして周囲から切り離された人物像としてそこにある、といものが多い。しかし稲田の彫刻は、その人物の周囲にある雰囲気までも感じさせ、しかもその人物は、髪の動きや服の皺や、さらには時に涙といったものまでが写されている。そんなふうにして、“今”を捉えることに迫る。それが稲田侑峰の彫刻なのだ。

まず押さえるべき稲田侑峰の世界とは、そういうものだろう。しかし、ここからが重要なのだが、稲田の彫刻にあるのは、そういうファッショナブルな彫刻ということだけではない。稲田の彫刻世界を支えている、もう一つの側面を見落としてはならない。

たとえば、その彫刻の人物がとるポーズ。これは、いっけんすると若い人が日常でふと見せる仕草を、そのまま写しただけに見える。確かにそうで、人はこんな仕草をふと見せてくれる。稲田は、その姿を描写する。しかし、それだけではない。

たとえば『光のあるところへ』(2018年)という作品では、スニーカーを履いてジャンバーを着てスカート姿の女性が、首を横に向け、右肘を曲げて肩に手を当てている。どこかの街で信号待ちをして立っている女の子の描写にも見える。しかし、このポーズはルネサンスの彫刻、ミケランジェロのダビデのポーズと同じなのだ。たしかに、足の底を地面にしっかりと付け、強い意志を持ってそこに真っ直ぐに立ち上がっているダビデ像のような力強さがある。

また、『不確かな輪郭』(2015年)という自画像(というか彫刻なので自刻象というべきか)では、ただ腰をおろして、顎に手を当ててボーッとしているだけのようだが、本人の解説によると、これは「ロダンの考える人は体を大きくひねって無理な姿勢をとっているが、この作品はデューラーの銅版画《メランコリアⅠ》から影響を受けた作品。彫刻的な動きのコンポジションよりも精神的な相対性が強くなる平面性、左右対象を取り入れている。先が不確定な世界に進む当時の心境を投影した」ものだという。

このようなアルブレヒト・デューラーやミケランジェロを参照して造形した彫刻などの直接的な引用だけでなく、稲田の造形の芯には、どれも美術の歴史と伝統が、しっかりと根をおろしている。先に引用した稲田の博士論文では、その第一章の章題が「人間像が持つ再現性とイメージの形」で、そこでは縄文時代草創期の土偶から論をおこし、縄文時代中期の、その立ち姿の佇まいが印象的な「西ノ前土偶」という(マニアックな!)土偶に言及しつつ、それを現代のプラモデルの「ガンダム」や、ロボットの「ASIMO」と比較し、とくに体の直立や歩行という観点から論じられている。さらに古代エジプトや古代ギリシアの彫刻、ヨーロッパ中世の彫刻など、幅広い作品へと目を配りながら、そこで自己の作品を取り上げ、比較考察されている。

土偶からロボットのASIMOやプラモデルまで、さらに古代ギリシアの彫刻と、古典から最先端の造形物までが稲田の視野にはあるのだ。そのような視点によって、稲田の彫刻は、その制作体験で培った眼と、それが見る古今東西の彫刻が交差し、独自の人間像へと結晶する。

さらに注目したいのが、髪や服の皺などの、細かい描写だ。今回の新作『Night By Night』(2020年)の三体の像をはじめ、稲田の彫刻の人物は、ダウンジャケット、ジャンバー、それに毛布のようなものに包まれていたり、様々な質感の素材をその身体に纏っている。枕を抱えた人物もいる。それぞれの素材の質感は、それぞれ異なる皺を作る。稲田は、そんなディテイルにも、とことん拘っていく。レオナルド・ダ・ヴィンチは、人物の服の皺を研究するために、たくさんのデッサンを残しているが、稲田はデッサンや絵画ではなく、木彫という技法で、その可能性を探究している。服の皺というのは、一瞬で現れて、一瞬で消えていく刹那の儚い形だが、稲田はその瞬間的な表情の美を捉えることに苦心する。

そして、もう一つ、見落としてはならないのは、稲田の彫刻は、そのほとんどの人物が「立っている」ことだ。稲田の作品に限らないが、美術の歴史を俯瞰すると、多くの人体彫刻が立像だ。この「立つ」という姿にも注目しよう。サルからヒトへの進化の中で、解剖学的には、人体の第一の特徴は、二足直立の構造にある。地球の重力は、ほんらい、立つという姿には向いていず、横たわる姿こそ、いちばん安定するはずだ。しかし彫刻では、そして稲田侑峰の彫刻でも、そのほとんどが「立って」いる。特に新作『夜が来るⅡ』(2020年)では、枕に頭を載せているという、横たわる姿勢であるべき状況なのに、あえて立っている。それは不安定な立ち姿ではなく、確固とした、揺るぎない立ち姿だ。その「立つ」という姿勢に、ヒトへの進化、さらには地球の重力という究極の世界までが内包される。この立つという姿の魅力、そのバランスを、稲田の彫刻を鑑賞するときに見落としてはならない。

しかも、その立つ姿は、服や髪の刹那に現れるものとの対比の中にある。これが稲田の彫刻の魅力となる。皺や髪の描写という刹那の世界、日常の光景の描写、そういう“今”だけでなく、稲田の彫刻には、さらに深い“奥”があるのだ。

 

その彫刻には、いっけん“今”が写されているように見えるが、その背後には“永遠”があるのだ。